精神の呼吸

Posted by M.Mukai on 7月 27th, 2008

 私も多くのお客さん同様、モディリアーニ展目当てで国立国際美術館に行きました。そこで同時に開催されていた「塩田千春 精神の呼吸」展。作品についてはぜひ直接触れてほしい。モディリアーニ展とはまた違い、質の違う衝撃がそこにありました。普段の生活の中で何気なく目にする事物、それらが纏っている時間の経過、過去の記憶、主との営み、人との出会い、見えない繋がり。それらをまるでその作品の中に同時に表現しようとしているような…どこか、様々な角度からの立体を、すべて平面上に表現しようとした試みに似ている。

 「音楽は刹那の、美術は永遠の芸術である」と誰かがいいました。確かにそうかもしれない。でも彼女の作品に触れて、ふと気付いたというか教えてもらったことがあります。作品は変わらないかもしれないけれど、私たちは変わり続ける。その時に作品に触れて感じたことは、その時にしか存在しないのだと。だからその時々の気持ちや、作品に触れた時の感動を大切にしたいと思いました。

ハープ

 美術館の入り口、そこにも刹那の芸術家が一人。

「塩田千春 精神の呼吸」9/15(月)まで国立国際美術館にて

モディリアーニ展

Posted by M.Mukai on 7月 18th, 2008

国立国際美術館 国立国際美術館、モディリアーニ展に行ってきました。モディリアーニ、不思議な画家でした。彼のスケッチブックには、人体のいろいろなスケッチ、クロッキーがありました。多くは、線を重ねて形を探して行くのではなく、躊躇しない一本の線で、描かれている素描。ピカソもそうであったように、まずフォルムを描く技術を学び、より単純で純粋な表現方法を探していたのかもしれません。

 プリミティヴィズム、文明に侵されていない原始美術とか、部族社会の美術とかを指すらしいのですが、そうした美術に魅了されて、モディリアーニは彼独特の人物描写を確立していきました。ピカソもそうした美術に興味を持ち、どちらかというと情熱的な表情をあらわにした、アフリカの彫刻に強い影響を受けた時代があったようです。それを経て後にキュビズムの開拓に突き進んでいくのですが、モディリアーニは一見無表情な、静かな表情の彫刻に魅せられた時代があり、彼の人物表現を開拓していったのでした。

 たくさんな肖像画がならんでいて、どれも無表情に描かれているようなのに、なぜか強い意志を感じる。色彩や、静かながら何かを秘めた表情が、一人一人の個性を際立たせていました。表情に表れない、静寂こそが表せる本質を、彼は描きたかったのかもしれません。

 彼の作品には女性の肖像画がたくさんありますが、恋人のジャンヌ・エビュテルヌのそれはその作品群の中でも重要なものだと思います。展示場には色男なモディリアーニの写真、美しいエビュテルヌの写真がそれぞれありました。二人がいかにお互いを必要としていたか、彼の作品からも伝わってきます。

 35歳で病により永眠した彼を追い、エビュテルヌは二日後に自殺したという。最後の最後までなんともドラマティックで、映画にもなっているようです。ぜひ見てみたい。

「モディリアーニ展」9/15(月)まで国立国際美術館にて

ピカソ美術展

Posted by M.Mukai on 10月 11th, 2007

 先日京都のピカソ美術展に行きました。ピカソといえば、キュビズムの創始者の一人で、立体の全てを前面に出す特徴的な絵でとても有名です。子どもの頃から天才でデッサンを極めたからこそ、子どもの頃に描けなかった絵を求め続けていたのだろうと思います。彼の絵を見ていると、時にとってもかわいい絵があります。美術展でも数点並んでいましたが、私は彼の牛の絵が好きです。牛といっても、ゲルニカのような怒りや悲しみにあふれたタッチで描かれたものでなくて、ただ初めて牛さんをみてその大きさにドキドキした子どものように描かれた絵がとても好きです。

 昔パリのピカソ美術館で買った写真の絵はがきなのですが、ピカソのユーモア溢れるその写真作品が今でも印象に残っています。食卓の前に座ったピカソ。手は膝の上にきちんと揃えているようで、机の下に隠れています。食卓の上には10個の小さな(といっても1つで朝食には十分な大きさの)フランスパンが並んでいて、5個ずつちょうどそれぞれの手が隠れたあたりに、指のように並んでいます。それを知人に見せた時に彼は言いました。「やっぱりピカソは手も凡人とは違うなぁ。」

フィラデルフィア美術館展

Posted by M.Mukai on 9月 26th, 2007

 フィラデルフィア美術館展の最終日、京都市美術館に行きました。印象派からキュビスムとかシュルレアリスムとか…とにかく個々の作品だけでなく、美術の移り変わりも感じ取れるような構成でした。それまで求められていた写実的な表現から、明暗の段階に富んだ、印象的な、全体の雰囲気を重視した表現を求め、印象派に続いて、遠近法や写実を放棄して、ピカソを代表とするキュビスムとか、超現実とか、抽象とかいう表現が続いて生まれてるようです。正直シュルレアリスム(超現実主義)と言われても、「これが現実を超えた現実かぁ」なんてわからないんだけれど、写実的でわかりやすいものをはじめ、いろんな絵をきれいだなぁとか、ステキだなぁとかなんとなく眺めてて、ふと惹きつけられるのがそんな世界の作品であることが多いです。

 ジョアン・ミロという画家がいます。私はなぜかこの人の作品が好きです。対象、物事や空間を細部まで写実的にではなく、また全体的に印象的に描いている感じでもなくて、「いったいどこにこんな世界があるんだろう」って不思議に思う作品です。でも確かに”抽象的”ではなく、夢の中のようではあるけれど、具体化された世界がそこにあります。一つだけ持ってる複製画はミロの作品です。以前、美術館の一室で、遠くからその作品を見たとたんに気になった作品。複製画では、本物と対峙した時のような何かを得ることはできないけれど、その時の感動をたまに眺めては思い出しています。実際に作品と対峙した後、ミュージアムショップで絵はがきをよく買います。絵はがきは安価で良い。本物は買えないからそれで何かを思い出したいのかも。

 シュルレアリスムは空想でも非現実でもなくて、「ものすごく過剰なまでに現実」「現実から離れてしまった世界ではなく、夜の夢や見慣れた都市風景、むき出しの物事などの中から不意に感じられる「強度の強い現実」「上位の現実」」という考えの中で描かれる世界だそうです。
シュルレアリスム. (2007, 9月 14). Wikipedia, . Retrieved 14:26, 9月 26, 2007 from http://ja.wikipedia.org/

─私は何も創造していない。
  すべてそこにある。─ ミロ

  ある女優の言葉を思い出します。
「私は絵を通して、彼の見ていた世界を見たいのかもしれない。
私にはこんな風に世界は見えないから。」