フィラデルフィア美術館展

Posted by Y on 9月 26th, 2007

 フィラデルフィア美術館展の最終日、京都市美術館に行きました。印象派からキュビスムとかシュルレアリスムとか…とにかく個々の作品だけでなく、美術の移り変わりも感じ取れるような構成でした。それまで求められていた写実的な表現から、明暗の段階に富んだ、印象的な、全体の雰囲気を重視した表現を求め、印象派に続いて、遠近法や写実を放棄して、ピカソを代表とするキュビスムとか、超現実とか、抽象とかいう表現が続いて生まれてるようです。正直シュルレアリスム(超現実主義)と言われても、「これが現実を超えた現実かぁ」なんてわからないんだけれど、写実的でわかりやすいものをはじめ、いろんな絵をきれいだなぁとか、ステキだなぁとかなんとなく眺めてて、ふと惹きつけられるのがそんな世界の作品であることが多いです。

 ジョアン・ミロという画家がいます。私はなぜかこの人の作品が好きです。対象、物事や空間を細部まで写実的にではなく、また全体的に印象的に描いている感じでもなくて、「いったいどこにこんな世界があるんだろう」って不思議に思う作品です。でも確かに”抽象的”ではなく、夢の中のようではあるけれど、具体化された世界がそこにあります。一つだけ持ってる複製画はミロの作品です。以前、美術館の一室で、遠くからその作品を見たとたんに気になった作品。複製画では、本物と対峙した時のような何かを得ることはできないけれど、その時の感動をたまに眺めては思い出しています。実際に作品と対峙した後、ミュージアムショップで絵はがきをよく買います。絵はがきは安価で良い。本物は買えないからそれで何かを思い出したいのかも。

 シュルレアリスムは空想でも非現実でもなくて、「ものすごく過剰なまでに現実」「現実から離れてしまった世界ではなく、夜の夢や見慣れた都市風景、むき出しの物事などの中から不意に感じられる「強度の強い現実」「上位の現実」」という考えの中で描かれる世界だそうです。
シュルレアリスム. (2007, 9月 14). Wikipedia, . Retrieved 14:26, 9月 26, 2007 from http://ja.wikipedia.org/

─私は何も創造していない。
  すべてそこにある。─ ミロ

  ある女優の言葉を思い出します。
「私は絵を通して、彼の見ていた世界を見たいのかもしれない。
私にはこんな風に世界は見えないから。」

作品名「夢」(鉛筆による複製)

Posted by Y on 9月 19th, 2007

 中学三年生の美術で作った作品です。画材は何というのか忘れましたが、鋭いもので引っ掻くと削れて白い線ができる、何か黒い土台が塗られた紙でした。テーマもなく自由にその白い線で描いていくという創作でした。その時に私はこの作品を作りました。鉛筆では再現できなかったけれど、黒い背景に白い雲、そして林檎から放たれる白い光。私は随分時間をかけて細い線を重ね続け、林檎から放たれる光は、作品の上半分の黒い土台をほとんど白く変えていました。

 もう原作は残っていませんが、当時は抽象的で漠然とした夢というものに、そしてそこに向かうことに、希望や憧れ、不安、覚悟、いろんな想いが入り交じった気持ちでいたのだろうと思います。夢に続くいばらのはしごは、もう地面が見えないほどの所にまで至り、当時の私が心に抱いていた夢への想い、その道のりが漠然と険しく、厳しいであろうという想いを表現しています。

Life’s like a love song

Posted by Y on 9月 13th, 2007

 いつもの駅に向かう道も、どこか秋の香りがするようになりました。蝉の声もあまり聞かずに夏を終わろうとしています。電車の中でいつも目にする広告があります。「その歳で ドキドキするのは 恋じゃない」…血圧川柳。うまい。けどなんか悲しい。

 パヴァロッティさんが亡くなった。トリノの開会式でラストを飾った歌はまだ記憶に新しいけれど、その時にはもう病と闘っておられたようです。入場も退場も見せなかったけれど、いろいろ言われていますが、その時の歌は本当に楽しそうでした。言葉に強い力がありました。イタリアのヒーローは歌の好きな、音楽の好きな少年のようでした。

 最近昔聴かなかった歌を聴いています。今更ながら矢井田瞳さんの音楽が好きになりました。彼女たちは自分の言葉で自分の想いで歌うから、聴く側としても言葉という媒体がストレートに理解できるから、とても伝わるものがあります。装ったものではなくて、内側からでる表現には力があるみたいです。クラシックの歌曲だってきれいな声でただカタカナを読んでる間はだめなんだろうな。

 歌もとても素敵。すべての歌手がそうあるわけではないけれど、開放感のある声が気持ちよかったり、声が裏返る時に偶然生まれる揺れや、こぶしのような装飾を、自由に操るように歌うのが魅力的だったり、それぞれが魅力を持ってる。曲も素敵。時にエレクトリカルなサウンド、感動的なコード進行、独特なアーティキュレーション、リズミカルな曲も聴いてて快い。タイムリーにはあんまりわからないけれど。

 死ぬまでドキドキしたいわってYUKIさんが歌ってる。恋じゃなくたってそっちのほうがいいな。血圧もそりゃ気になるんだけど…

かぼちゃ

Posted by Y on 9月 6th, 2007

かぼちゃ
 岡山に行った時、海辺に大きなカボチャがある島に行きました。島起こしで美術作品を島にちりばめようと現代の美術家が考案したような話を昔テレビで見ました。美術館も有名なのが二つほどあって、もう来ることがないかもしれないと観光ついでに行ったのですが、入場料が高い…一つは建物そのものが作品で、受付が本館から離れたところにあって、そこでカメラ付きの携帯までロッカーに預けました。美術館自体は確かに空間芸術を中心にしていて、まるで異世界に迷い込んだようでした。好きな作品にも出会えました。時間のない世界が確かにそこにあったんです。静かでシーンという音が聞こえてきそう。自分の足音さえ作品の要素になる、そんな空間。

 パリに行った時、いろんな美術館があってとても興味深かった。どの美術館も空間がとても居心地がよくて、ちょっと散歩に行こうかな、と立ち寄れるような。ロダン美術館、ピカソ美術館なんかが特にそんな感じ。入場料もそうだけど、そんなに敷居が高くない。

 
 美術館に限らず、立ち並ぶ建物も、町全体が芸術作品みたいなところでした。バロック建築な教会が数分歩く間に次々と見つかる。日曜日にはオルガンの演奏があるところも。毎週ウィークエンドにはいろんな教会で演奏会が開かれる。音が響くその空間そのものが芸術作品。

 日本に帰って奈良の学校に戻った時、奈良には日本の芸術が溢れているんだなって見直すことができました。つい異国である西洋の芸術に憧れるけれど、日本の芸術も相応しい目と感性で接すれば、すばらしい世界をいつも身近に感じられるんだろうと思う。

 今京都でピカソ展がやってます。京都を巡りながら、彼の世界にも触れに、四角い町を抜け出して行ってこようかしら。